より道の多い人生

生き恥晒して生きていく

夜を行き交う人たち

真夜中にどうにも眠れなくなって、消え入りたい気持ちと引き換えに、引かれても仕方ないような長文を友達に投げかけた。

お酒で浮かれてしまった夜も、居心地の良さに甘んじる夜も、すべてを台無しにしてしまいそうなほどひとりぼっちを自覚させられる。どうやらわたしの体はお酒に溺れるどころか眠ることすら許してくれない。

隣には恋人が、わたしをすっかり置いてけぼりにしてわたしの寂しさなど露知らずの顔で健やかに眠っていた。

わたしのことで困らせたいけど、わたしのことで傷ついてほしくない。そう思える彼のそばで、贅沢に幸せを無駄遣いしてまで時々自分を持て余している。

甘えたいのだ。どうしようもなく受け入れられたい。可愛がられたい。湧き出る欲望が堪えられない自分がたまらなく憎くい。でも、もう留めておくことはできない。

 

夜が早く明ければいいのに。きっと朝の光に絶望しながらわたしはまた眠ることができる。

そう思いながら夜を行き交って、出会い頭の交通事故みたいにして出会った言葉に今はしんしんと泣いてる。

「生きていればいいこともある」ということを証明するために僕は妻と結婚した

夜を行く人たちに向けられた言葉が、静かに染み入るとともに自分のありふれた欲望に打ちのめされそうだ。

わたしだってわたしの人生を証明したい。でも、その方法がわからない。

 

本来孤独は美しいものだ。

その美しさを放棄して切なくなったりするなら、潔く殺されたほうがマシだ。わたしは孤独を携え、深く自覚をもって生きていきたい。その行き着く先で知った愛を繋げたいだけなんだよ。

 

この粗末な日記を読んでくれている友人が言ってくれた。なぜかいつも夜を連想させられる、と。

嵐の夜を迎えにいく、が生々しくて好きだと打ち明けてくれた彼女に、あれはなかば遺書のつもりで書いたことを伝えてしまい、もしかしたらがっかりさせてしまったかもしれない。

夜から抜け出せないことを嘆かわしく感じると同時に本当は嬉しくもあった。わたしの奥にある暗さみたいなものを、そのまま見ていてくれたみたいだったから。

嵐の最中ですらも、ああやって言葉を残せるということは人類最大の発明なのかもしれないのだと、力弱くひとりで笑った。

嵐の夜を迎えにいく - より道の多い人生

 

迷子の部屋が明るく照らされてきたのを見届けはじめると、恋人が眩しそうに寝返りを打った。わたしの好きな人たちみんな、こんな風に無防備でいて欲しい。どうか、大きな何かに守られていて。彼の寝息を子守唄に、わたしはようやく揺るぎない闇へ導かれる決心をした。

おやすみなさい。目覚めた朝が、わたしの腫れた瞼など見向きもしないくらいありふれていますように。

キラキラにもメンヘラにもなりきれないまま、春は

TWICEが歌うOne More Timeみたいな女の子でいたかった。

帰宅したというのに、上着も脱がず、テレビもつけず、誰もいない静かな部屋でひとり思った。それ以外はなんにも考えられないくらい、すっかり疲れていた。

 

www.youtube.com

Gimme gimme more 君と歩いて行く
One more time gimme gimme
One more time O-oh
手を繋ぎ見える全てが好き one more time 誰より
One more time O-oh 輝くの

2人ならHappy 幸せがTWICE
もう隠さない素直なTruth
最高にLucky きらめくのtwice
体中に走る coolest groove 

事の発端は、友人とお酒を楽しく交わして帰宅した先週の日曜日だった。

テレビをつけるとちょうど情熱大陸が放送されていて、あのTWICEのリーダーがフューチャーされていた。目とおっぱいがおっきくて、まるでキューティーハニーみたいな女の子が、画面の向こうからわたしに微笑みかけてくる。

酔いどれの頭のまま見ていて、自分でも知らぬ間に気が付いたらポロポロ泣いていた。なんて可愛い女の子たちだろう。みんなキラキラしていて愛に満ちた世界にいるように見えた。そこに自分が辿り着く事も、盲目的に手放しで好きでい続けることはきっと永遠にないのだろうと思うからこそ、こんなふうに泣けてしまう。彼女らの孤独や寂しさすらも、なにひとつ考えもしないまま泣くのは自分勝手だと知りつつも、そうする他に術などない。

 

自分の人生を誰かやなにかと比べるつもりはないし、卑下もしていないつもりだ。このへっぽこ人生がどこまで通用するのかはわからないにしても、あくまで自分の人生の舵は自分で持つこと以外に選択肢はない。

今見えているものが全てじゃないとわかっていても、考えてしまう。人生が、もっとシンプルだったらいいのに。好きな人を、ただ好きでいること。それだけでいいはずなのに。何一つ当たり前じゃないからこそ、ひとつひとつを慈しみたいと願う心は、満たされるどころかどんどん乾いてゆく。幼子のように地団駄を踏んでは大切な人を困らせている。

自分の身体にも関わらず、生理ひとつでも順当にきてくれないし、些細なことでいとも簡単に悪態をつけてしまう自分が心底嫌でたまらなくなる。そんなふうに生きていたくはないのに、どうにも苦しくて仕方ない。

そう簡単に神様は犯した罪を許してくれないような夜だ。だけども春は、みんな平等にやってくる。どんな悲しみ色の空にも桜は花開く。あまりにピンクの花びらが悲しげに揺れてみせるから、ねぇ、どうやったって泣きたくて仕方がないよ。

春、爛漫、家族団欒

先日、父から久々に連絡がきた。
「●●区で事件があったけど、大丈夫か?」という内容だった。

慌ててPCの検索画面に「●●区 事件」と入力すると、数時間前に起こった事件の詳細が露わとなって画面を覆い尽くす。被害者は同世代の女性、犯人はいまだ逃亡中とのことだ。

年齢の近い被害者を『ありえたかもしれない自分』と重ね合わせる。うっかり行き過ぎれば、被害者意識になりかねないような当事者意識を、普段から持ち合わせているからこそ、知らぬ間にかなしみに溶けこんでしまわないよう、かなしいニュースはできるだけこころにいれないようにしてやり過ごしている。HSPだと言われてから、そうやって意識して『やらないこと』を決めねければ、すべてが自分に置き換えられてしまう。
そういった日々のなかで、時々でもこんな風に無条件で自分を案ずる人が居るということを知るのは純粋に嬉しいことだと思った。たとえそれが今は『家族』とは名ばかりの、すっかり遠くにいる存在からだったとしても。

 

なんとなく、今を逃すときっともう、
この気持ちは一生、日の目を見ないままだろうから
まだ、気持ちの落としどころを見つけられないままで綴ろうと思う。

今年の1月にそう記したものの、結局うまくまとめられず下書きにしたままのことを、今改めて加筆して公開してみる。

 

・・・


事前に聞いていた通り、12月30日の午前中にそれは届いた。

午後一で予約している美容室に行かなくてはならず、すこし慌てた気持ちで箱を開ける。同梱されていたのは、丸餅に米菓、ちょっといいレトルトカレーとか。それらをかき分けて、ようやく底のほうから複数のタッパーに収められたおせちと対面したのだった。

お正月くらいでしかみることのない食材を存分に使いつつ、彩りに気を遣い、綺麗に盛り付けられた、なんとも父らしい繊細なおせち料理。相変わらずバランスがいい、と贔屓目なしで思う。

そのとき、わたしの手のひらにあるものは間違いなくわたしが良く知る父で、わたしはなぜか不思議な気持ちに浸りながらそれを慈しんでいたのだった。

父から稀に届く贈りものは、レトルトの食品や缶詰、ちょっと渋いお菓子たちが煙草の匂いにまみれてやってくる。かと思えば、甘みとうま味を十分に蓄えている証拠と言わんばかりにふっくら艶々とひかる人参の旨煮がハートにくり抜かれて、優美におせち料理を着飾っていたりしている。そういう、鈍感さと繊細さが絶妙な塩加減で混在するのがわたしの父だった。わたしは、父のそういう相反するところが大好きだったし、随分苦しめられてもきた。

いくつになっても、一向に貰えそうにない母からのまなざしを代わりに降り注いでくれるのは父だった。
父は太陽そのもので、その暖かさはいつだって容赦ない。情けのない正義感を振りかざす母と比べるとまるで救いのようにも思えるけど、それは“父以外に拠りどころがない”わたしが“最後の希望”として父をヒーローとして仕立てたみたいなところがあったからだ。そうやってしがみついていたものでしかなかった。
そのあとで、父の浮気現場を目撃してしまったわたしは、居場所などとうに残っていなかったことを知る。父はわたしのたったひとりの父であり、ただの男に過ぎず、そんなくだらないものに成り下がった。


いろいろな感情から逃れたい一心で、大切な人すらも残したまま上京して、以来早7年もの月日が経つことに今更ながら驚きを隠せない。いわゆる『一人暮らし』をはじめたのはわたしが高校2年生の頃。同棲やシェアハウスなどを挟みながらも、そこから10年を越える月日が経つ。もう、ずっとひとりだったりふたりだったりでどうにかこうにかやってきた。

そもそも上京してから3年間ものあいだ、お互いまともに連絡すらしていなかったのだ。そこからどうやって再び交流しだしたのかは覚えていない。世間でいう『実家』という形式のものはもうとっくのとうにない。それは、いま振り返れば、家族がかろうじて家族という姿で留めていたときから崩壊していたように思う。

「いつかは無くなる」覚悟を知らぬ間にしてきたけれど、それでも、彼らに対する愛情が皆無という訳ではない。わたしの部屋には「ひとりで生きる」決めた日以来ずっと、わたしが撮った若き頃の両親の写真が飾られている。
家族旅行といえるものをほとんどしてこなかったわたしたち家族だけれど、近所でのお祭りやなんでもない日曜の朝には喫茶店のモーニングへと、よく出かけたのだった。割と仲良し家族と言える部類だった。
その中でも、毎年の恒例行事のひとつだったのが大阪造幣局桜の通り抜け。そこへ行った際に、当時13歳だったわたしが写ルンですで撮った1枚。それは、家族水入らずで出かけた最後の桜の通り抜けだった。

おせち料理らと一緒に同梱されていた父からの手紙は相変わらず達筆で、よく凝らして見ないと読み取れないときもあるほどだ。
手紙を読み終えて、ふいに箱に目をやると、お正月につかうための祝い箸が一膳佇んでいた。わざわざわたしひとりのために、添えられた一膳の祝い箸がわたしに使われるのを待っていた。たったそれだけのことだったのに、それをみた瞬間、涙が溢れ出て止まらなくなったのは本当に一瞬の出来事だった。

あぁ、もう準備して家を出なきゃならないのに。そう思いながらわんわん泣いたあの日の気持ちを、自分でも未だに解明できていない。


・・・

 

ここに記しておこうと思ったのは、たしか年明けにはてこさんの日記を読んだからだったと思う。

はてこさんの日記を読むとどうしようもなく無性に泣きたくなる。わたしが泣いたって何の助けにもならないから泣きはしないのだけれど、はてこさんを抱きしめる代わりにただ文字を見つめ、言葉と対峙し、「どうかこの文章をかく、画面の向こう側にいるこの人がすこしでもだいじょうぶであれ」と、祈っている。

それだけではない、わたしははてこさんに憧れてすらいるのだと思う。

この世に残された言葉はそのひとの世界そのものだ。こんなふうに世界を捉えて、言葉に置き換えられたならな。そこに行き着くまでにどんな痛みや喜びが伴っているのかを私は本当に知ることはないけれど、それでも言葉の端々から漏れ出したものを仮に愛と呼ぶのなら、少なからずわたしはその愛に間違いなく救われている。

 

父がどんなにでたらめで残酷な一面を持っていようが、父の言葉の効果は消えないのである。何かが父にそういわせているのであり、その何かがわたしに好意を持っていることは間違いない。それはそれ、これはこれ。

 

わたしはもう父の名言を父の人格と結び付けて父を慕うことはないが、父が口寄せしてくれた数々の貴重な言葉を、いまも好きな映画の台詞のように時おり思い出す。わたしの人生の脚本家は父にけっこう重要な台詞をいわせるのが好きらしい。最近は出番がないけれど、今後も乞うご期待である。

父の言葉 - はてこはときどき外に出る

 

そしてわたしは言葉で恋をする。

写真や絵が好きな人が目で恋をするのだとしたら、音楽が好きな人はきっと耳で恋をするのだろう。食べ物が好きな人は匂いで恋をして、スポーツが好きな人は身体で恋をする。映画が好きな人はリズム感で恋をして、本が好きな人は言葉で恋をしているのかもしれない。


「めんどくさい」と自分自身が思うとき、きっと相手にも「めんどくさい」と思われてるんだろう、ということも同時に思う。
そばにいてほしいと願いながらも、傷つけたくないし傷付きたくもないから会いたくない、という相反する気持ちが色濃く漂う夜は結局、もうどうしたらいいのって困り果てた挙句泣き疲れて寝てしまったのだった。

今に限った話ではない。彼と付き合う前にだって「めんどくさい」と思われることが嫌だから、会いに行くことをいよいよ辞めようとしていたことが数える程ある。もうその思考回路に伴うすべての行為自体がめんどくさいから、結局なにをどうやってもめんどくさいのには違いない。何度も繰り返し経験しているのにも関わらず、残念ながら「めんどくさい」は回避できないみたいだ。

それでも、こんなふうに不安が渦巻くときに多少無理してでも会いに行っていたのは、少しでも不安の芽を摘んでおきたかったから。結局はわたしのエゴでしかないとしても、ふたり一緒にいて笑いあうためにしていたひとつの努力だった。
会える距離にいたって身体はひとつしかないし、いつでも会えることの確証なんてどこにもない。日常は当たり前のような顔をしているだけで、当たり前のことなんて何ひとつない。それを強く意識しているから、ひとつひとつがどこか命がけになってしまう。本当は、とてつもなくこわがってるだけだというのに。

不安でいっぱいいっぱいのわたしを目の前にして、困り顔の彼は言う。
「めんどくさい、とは思ってる。でも、大前提として恋愛はめんどくさいものだし、そのめんどくささに屈するつもりはない。」

追い打ちをかけるように数分後、わたしが説明されたことについて、どう考えても分からないから解説して、という彼の少し乱暴な態度にすっかり意気消沈としてしまった。わからなくて当然なのに、わからない、という一言でこんなにもダメージを負ってしまう。渦巻く感情からなんとか距離をとり、組み立てて説明したことを、分かってもらえるようもう一度説明するにはどうすればいいのだろう。なにがダメだったのかをせめて示してほしい。
頭真っ白になりながら振り絞った答えは「空腹な状態で平和的解決なんてありえないから、とりあえず一緒にごはん食べよう。」で、お腹いっぱいになったあとはすっかりどうでもよくなってしまった。


「めんどくさいと思われるのが嫌だから会うのを辞めようとしていたのに、やっぱりちゃんと会った方が気持ちとしては落ち着くね。笑 めんどくさいのに相手してくれてありがとう。」

いつものパターンに落ち着いてしまったのは腑に落ちないけれど、ちゃんと説明できていないのであれば、それは自分の課題でもあるからすこし時間をもらおう。時間をかけたりかけなかったりして、この謎を解き明かそう。気が付いたらひとりでにそんな気持ちに収まったので、朗らかな気持ちで彼にLINEをした。

 

「めんどくさいなんてひどいことを言っちゃってごめんね。口だけで態度で伝えられていなくて不安にさせちゃってるけど、本当に大切だと思ってる。」

画面の通知で垣間見えた彼からの返事を見て、まるで条件反射かのように泣いてしまった。既読にするタイミングがわからないくらい微かに動揺してしまう心を抱えてわたしはまた彼の言葉に恋をしてしまうんだろう。

明日にはすべてが終わるとして

きのこ帝国のアルバム『eureka』を無性に聴きたくなる時は大抵心が荒んでる。

www.youtube.com

荒んだ心には多少過激な言葉のほうが落ち着くのは可笑しいのかもしれないけれど、どうしてもそこに救いを求めてしまう。わたしにも荒れ果てた一面はちゃんと存在していて、そのことに何故か少し安心している節はある。行き着く原因は、いつだって自分自身の身勝手な被害妄想だってわかってるけど、止められない。だってそうやって自分を守らないと正気で居られない。

あの人とふたりで写る写真は出来る限りすべて消したはずなのに、変なところで出てくるの心臓に悪いからやめて欲しい。思えばあの人が撮ってくれた私の写真もやさしいことばが綴られた一部の手紙もまだ捨てられない。いつかは捨てるつもりだけど、まだ捨てれそうにない。

恋人に対する気持ちは本物だ。それなのに、もしかしたらこの先一生貰えないかもしれない手紙をどこかで待ち望んでしまっている自分が居てうんざりしてしまった。恋人は手紙を書くような人ではないと知っていながら、受け入れているはずの違いが悲しくてたまらない。理想はやっぱり相手にも同じような気持ちで居て欲しいと思ってしまう。あの人よりもちゃんと大切だと思うからこそ、比べたりなんてしたくないし、そもそも全く違う人達だ。集中していたはずの気持ちも周囲との温度にふれてしまうことで簡単に揺らぐ。好きだからこそ、逃げたくなる。こんな醜い自分を見せられない。すべてを放り出して消えたい。別れたい。あぁ、まったくもって正気じゃなくて笑ってしまう。

明日にはすべてが終わるとして、そしたらこんな煮え切らない気持ちを弄んでいることを後悔したりするのだろうか。自分の感覚を、自分だけの優しい気持ちをどうしたら正しく使うことができるの。

こんなときには単純に彼に甘えたいって思うけれど、どんな言葉を紡いで甘えればいいのかわからない。一応、わたしなりの方法で甘えているけど一向に言葉が届く様子は見られない。どんな言葉なら、「甘え」だと人は認識するのだろう。今までだってそれなりに努力してきたけれど、これからもこんなのが続くと思うとほとほと弱ってしまいそうになる。

いつかの誰かに言われたように「甘え方が可愛くない」なんて言われたとしたらそれこそ耐えられないし、「助けて」っていうには大げさすぎる。「大丈夫?」って聞かれると「大丈夫」って答えてしまうから、大丈夫?って聞かないで。そばにいてよ声を聞かせてよ。

 

とりこぼしてはいけないもの

会いに来てって言ってくれるのを待ちきれずに、会いに行っていい?と聞いたら、大量のおでんを作ったよ、と写真付きの返事がきた。自分ひとりだったら決して考えられないような大量の具材が投下されたおでん鍋を見て、彼らしいなと思わず笑う。
ふたりして、一夜では食べきれそうにないアツアツのおでんを口いっぱいに頬張っていたら、「おでん作ったから会いに来てって言おうとしていたら先に『会いに行っていい?』って言われた」と彼がつぶやく。

今の私たちは、きれいな形じゃないかもしれないけれど、それでもお互いがちゃんとお互いを見つめようとしているのかもしれない。 

彼と付き合うことで気付いたことがある。
それは、好きな人に会うことに、理由や意味を考えてしまう癖を一刻も早くやめたほうがいいということ。
自信がないとか、人見知りするからとか、恋人の失態を目撃して失望してしまわないかとか、とりあえずでもいいから、一切余計なことを考えずに、ただ好きな人に会えることに喜びたい。
たとえ一緒にいることにたいした意味を持ちえなくても、一緒にいるということがすべてで、そこに意味があるのだと、そんなふうに居られる自分でいたいと思った。一緒にいてもいなくても、何気ない今日一日が何よりも大切だってこと、わたしは知っているはずだ。

1週間のうち、割と頻発して一緒に過ごしたあと、彼からのLINEで「〇〇がいない~~寂しい~~」ときたのが素直に嬉しかったある日。
望んでいたはずの「早く会いたい」という言葉なはずなのに、裏に何か隠されているんじゃないか?って無意識に愛情を疑ってしまうのは本当に悪い癖だから、これもやめていきたい。

幸せを自ら踏み潰してしまうのは、愛されることに慣れていない証拠だ。怖がらずに愛情をちゃんと受け止めることのできる強さを持つことを心に決めた。

愛は動詞である。 

今、会社の研修で読んでいる、かの有名なビジネス書の一小節にこんな言葉があって、驚いた。10年ぶりくらいに読んだのだけど、愛について言及していたなんて記憶がない。10年もの間なにやってたんだ自分。

他のエントリでも少し触れたことがあるけど、以前に宇多田ヒカルがプロフェッショナルで触れていた「愛とはなにか」という質問に対して言っていたことに通ずるものがあるなーと、読みながら思ったりした。

愛してると云うにはまだ恥ずかしすぎて、大好き、が精一杯のわたしたち。

目を合わせていくということ

そのスカートかわいいね、と言ってくれたことが嬉しかった。
地味だけれど行きつけの古着屋さんで買ったお気に入りのスカートなんだ、と答えた。

今まで他の誰も褒めてくれなかったけれど、まさかのきみが気に留めてくれるとはわたしも思っても居なくて、わたしたちにしか知りえない感覚を共有したみたいだと、密やかに思う。器用なのか不器用なのか分からない彼が、そうやってたまにこぼす言葉が愛おしくて、わたしは嫉妬しそうになる。

「お願いだから、わたしだけに見せていてね。」

なんて言うことは、きっとこれからもない。妬いている暇もないまま、空いてしまった夜の予定を埋めるべくひとり映画館へ向かった。

今年の映画はじめは、実際に起こった事件をもとに創られた美しい愛と再生の物語。
最後の最後で思いもよらない涙が流れて驚いたのは、主人公同様に好きな人を守りたいと思うひとりにわたしもなっていたからなのだろう。
台詞が少なくて、伏線を回収しきるまでに多少の辛抱が必要だったけれど、悲痛なほどに美しくていい映画だった。

映画「シシリアン・ゴースト・ストーリー」公式サイト | ABOUT THE MOVIE |

 

再び世界と繋がった携帯に「きみがこのあいだ作ってくれた小松菜と揚げの炒めものが美味しかった」と、同じものを作った彼から写真が届いていた。
映画を観に行くと伝えていなかったので慌てて電話するも、彼が電話に出ることはなく、寝てしまったのだろうと思いながら自宅へ帰る。

昨日は彼の家へ、今夜は自分の住処へ帰ることの違和感と、わたしたちがどこまでいっても他人であるという当たり前のことを知ってますます不思議な気持ちに陥るのだった。

会社の人に頂いた2kgほどのお米を抱えて、ほんのりぬくぬくとした気持ちで帰る途中、この道の先には一体誰がいるのだろうか、とぼんやりした頭で考えた。少なくとも今は、この先にいるのは彼であってほしい。そう願っている。昨夜めずらしく最寄駅まで迎えに来てくれた彼の手の冷たさをそっと思い出す。

スタート地点はいつだって「好き」から始まるけれど、その気持ちを大切にしていくためにわたしがしていくべきことはきっと、ほんのすこしずつ目を合わせていくことなのかもしれない。おんなじ方向に歩きながら、時折、目と目を合わせていくこと。勇気をもって自分自身を渡していくこと。関心を持って彼のことを知っていくこと。許し、癒される存在であること。

傷付くのがこわくて、自信のなさを悟られたくなくて、今までずっと大切なことを話すときには彼を抱きしめ、顔を隠した状態で伝えてきたけれど、これからは顔と顔、目と目、唇と唇を付き合わせて、あるだけの熱量を渡しあっていくという覚悟。

わたしにそんなこと出来るのか不安になるけれど、それでもこんなに胸をあたためるのは、わたしに対する彼からの眼差しそのものだ。それを間違いなく受け取り続けていくことで、彼をもあたためることが出来ればどんなにいいだろう。彼を信じることは、自分自身を信じることだ。