より道の多い人生

生き恥晒して生きていく

あなたはいつも守られている側

あなたはいつも守られている側。
その外側にはわたしがいることを、きっとあなたは知る由もない。
そこがあなたのいいところで、わたしには持ちえないところ。だから、わたしはそんなあなたが好きで、こうやって苦しんだりもする。

誰かに強く抱きしめられないと立っていられないような悲しみに覆われてしまった、いつかの帰り道のこと。
誰も悪くないことはわたしが一番分かっていたのだけれど、すっかり忘れ去っていたはずの「内側と外側」の意識が浮き出た瞬間にはもうどうしようもなく悲しくて、たまらずマフラーの下で大泣きをした。

いっそ、すべてを諦めてしまおうかって思い詰めるくらいには、もうずっとはちきれそうな心を抱え込んでいた数日間。例えるならそれは『飼いならされていない虎が自分のなかに住みついて、自分の意思とは関係なく、どうにも暴れたがっている』といった感じだった。

なんとか制御しようとするけれど、それはそれで意に反する気もするし、それがまた意味わからんしで、とにかく全方位で耐え難い状況だった。「全方位で無理」とにかくそう思ってた。
気が付けばすっかり毎日はヘトヘトで、眠りにつく瞬間だけがこの世にあるすべてのやさしさだった。


悪魔のような数日を通り過ぎて、「全方位で無理」と思っていた気持ちが嘘みたいにほどけた朝、予定から5日遅れて月のものが来てほっとした。今思えば、予定なんてただの目安でしかないのにね。なんであんなに追い詰められるのかが不思議でならない。

そして今、信じられないくらい心が自由だ。ホルモンの作用って本当に恐ろしい。にんげんとは、なんという生き物だ!一生ではないにしても、生きている限り続いていくのだと思うと、まったく叫びだしたい気分だ。

そんなこんなで、こんなにもPMSで心身ともにズタズタにやられたのは久しぶりで、恋愛というか生存そのものにつくづく向いていないと心底思った。


▽ メンタルがズタボロ豆腐のときに読んでしまった増田。頑張っている誰かのこと、抱きしめたいと思った。

頑張ってるあの子のこと褒めてあげて

 

みんなが普通の顔をして持っている「自尊心」ってやつを、わたしはほぼほぼ持っていない気がする。ない、というか、著しく低い。そして、そのことを時折忘れてしまうから厄介で面倒でもある。忘れずにいられたなら、この状況を予め回避することだってできるはずだから。

親友一家との居候生活を経て上京を決めたあと、いかに自分の自尊心が低く、その低さゆえに作用していたであろうそれぞれの行動の可笑しさに気付いたとき、あまりにひどくて笑うしかなかったのを覚えてる。

どんなに自尊心が皆無に等しい状況においても、人はとりあえず生きていけるんだって身を持って知ったけれど、湧きあがるのは絶望にも近しい感情だったかもしれない。

わたしが今、わたしでいられるのは間違いなく過去の祈りの蓄積で、友人や親友がくれる言葉がお守りだ。 

「落ちてる時のあなたも、上がってる時のあなたも好きよ」

「私はあなたの人を思いやれるところが好きよ。自分を律して物事を考えられるところも尊敬するし、なにより可愛いから!ほら自信もって、あなたは私がオススメできる最高のひとやよ」

  

youtu.be

Pretty pretty please, if you ever ever feel like you're nothing
You're f*ckin' perfect to me!

お願い もし自分が存在する意味なんてないって思ってても
からしたら あんたは最高に完璧な人間よ!

不安そのものに対峙する前に

言わないでおこうと、内に秘めていたはずの気持ちを
自分の弱さにかまけて容易く吐露した結果、不安な気持ちを伝染させてしまった。


過去のエントリでも書いたことがあるけど、漫画『凪のお暇』に出てきた台詞を思い出す。
言葉が生まれるときはいつだってひとり - 寄り道の多い人生

男女間の悲劇の引き金はいつだって”言葉足らず”

確かに彼は言葉足らずに違いないけど、きっとわたしは伝えすぎるのだろう。感情過多の情報過多。

言葉はいつだって、おしゃべりだ。とはいえ、言わずとして察してもらうなんて傲慢なこともしたくない。こんなとき、一体どんな言葉を用いればこの気持ちを正しく伝えられるのだろう。想いに正しさなんてあるのかどうか知らないけど。


大丈夫だ、と思いながら、頭の隅でどこか不安になってしまう。
自分を縛り付けているのは自分自身だと分かっていながらも、その鎖を解けないのはどうしてなのだろう。解いたつもりがいつまでもまとわりついて、ますます雁字搦めにしてくる。

ホルモンの作用だ、と言ってしまえばもともこうもないが、不安という実体がないものの正体がどういう構造で構築されていて、それに対して人間がどういう電子回路を走らせて呼応するのかが知りたいけど誰に聞いたらいいのかさっぱり分からん。

過去の現象が今現在に影響を及ぼしているのだとしても、それを糧にして生かすことだってわたしたちにはできるはずだ。それなのに、今ある幸せからも逃げ出したくなるのは、なぜ?

いつだってあとから振り返ると正しくあれるけれど、それだと生きている今が不公平じゃないだろうか?

抱えるコンプレックスや微塵も望まないトラウマによって、人一倍強く不安概念に囚われてしまうのだとしたら、「そういう性質だから」と言って諦めたりせずに、分析をしてなんとしてでも対策を講じていきたい。

不安そのものに対峙する前に、その感情との適正距離を推し量ることが何より大切なのかもしれない。

もう後戻りできないから どうか光のなかに立っていてね

人間を太陽と月に分けるとするなら、きっとわたしは月側の人間だな。太陽の光がなければ光ることすらままならないから。

あの頃、本気でそう思っていた。
誰かに「そんなことないよ」と言って欲しかったわけじゃなくて、本心で、なんなら無邪気に、むしろほんのすこし、そう思うことが誇りにさえ思っていた節があった。わたし、自分のことよく分かってるでしょって。

そんな高校生だったわたしに、当時仲のよかった大学生の男の先輩が「きみも、誰かにとっての太陽なんだよ」と言ってくれたことを、時折思い出す。そのことはいつだってわたしをやさしく支えてくれていた。「朝が来ない窓辺を求めているの」と椎名林檎女史が歌うように、恨みたくなるような朝が訪れてどん底に陥ったとしても、その苦しみ悲しみがいつか、なにかの道しるべになるように思えたのは、せめてものわたしなりの光の放ち方だったのかもしれない。

余裕があればなんとも思わないような一言が喉の奥に引っかかって、よっぽど鋭い人でない限り気付くことなどないようなそつない返信をしたけれど、自分には余裕のなさが浮き彫りになった返信に見えて、既読がつく前に取り消してしまった。その痕跡がますます自分を追い詰めた。
その一連をトリガーにして、無意識に闇に葬り去っていた『本当は嫌だと思っていたけれど、考えても仕方ないからなかったことにしていたアレコレ』が温泉のように噴き出してしまったのだった。嫌になるほど噴き出すのに、皮肉にもその水のあたたかさはわたしを癒しもした。誰かを想うということは、こんなにも醜くて情けなくて恥ずかしい。

誰かに話したわけでもないのに、自意識ってやつはどこまでも追いかけてくるのだから恐ろしい。みっともなさから逃れたい一心で、どうにか『すべてなかったことにできないか』と考えてみたりもするけれど、同時にわたしのなかに辛うじて残っていた健全なこころが、『幸せであろうとすることに怯えて、逃げようとしているだけだ』とも主張する。

人生を生きていくには、不幸なふりをしているほうが楽だから、わたしたち弱い人間は意思を持たなければついつい楽な方へ流されてしまう。意思を持ち続けるために、川のようにとめどなく流れる想いのなかから、限りなく「これだけは譲れない」と思うものを持てるだけ手に持って、ちゃんと渡さなきゃ。せめて、わたしだけはわたしの感情をなかったことにしてはいけない。
「どうせ渡しても意味がない」と手っ取り早く諦めて不貞寝してしまうことは簡単だ。わたしは、彼氏が欲しかったのでも、セックスフレンドが欲しかったのでもない。どうせ別れてしまう未来が待ち構えていたとしても、わたしは今、わたしをちゃんと気にかけてくれる人に、わたし自身を渡していきたいだけなのだ。そこに光をあてたいし、その光の根源はあなたであってほしい。そうじゃなきゃ、困るのだ。

もう後戻りできない現実に打ちのめされるよりも早く、笑ってわたしを安心させたい。わたしを安心させることが、どんなにあなたにとって世界平和に繋がるのかを今すぐに知らしめたい。なんて、わがままかな。わたしにはそれだけなんだけれど。


話が全然変わるんだけど、「世界がひとつになりませんように」と言いながら、みんながひとつになる瞬間を今年も見逃してしまったのでした。あーあ。

youtu.be

わたしの届かぬあなたへ愛のある日々を

こんなにもやわい力で、これでもかと言わんばかりにやさしさとさみしさを詰め込み、せつなさにしっとりまみれた手紙をもらうことはもう二度とないのだろう。


人が生きる一生のあいだに、強く心を惹かれるものとの出会いは、それほど多くはないのだと思う。誰かや何かを好きになることは奇跡みたいなことだから、自分の心が強く惹かれたものには嫌われてもいいから、傷ついても、ダメになってもいいから、素直に、正直に、恐れながらもありのままぶつかっていきたい。そう切実に思っている。

年末の片づけをしていた先日、あの人からもらった“最後”の手紙を見つけた。
ふと読み返してみると、わたしのことをよく知ったうえで、ちゃんと自分の想いを伝えようとする意志も感じられるセンスのいい手紙だと感じた。途端に「あぁ、わたしはこんなふうに言葉を紡いで伝えようとしてくれる人を失ってしまったんだ」という気持ちに苛まれてすこし困ってしまった。
わたしはもう、新たな道を歩んでいる。あのころには想像もしていなかった未知の人生を。

見方捉え方を変えれば、それはきっとあの人だって同じなはずだ。あのときに見えなかったものが今になってよく分かるのは、あのころを経た今の自分だからこそであって、砂時計をいくらひっくり返してもそれは変えることのできないまぎれもない事実だ。
今の自分を通してじゃないとあのころの自分なんて分からない。そうじゃないと今が嘘みたいになってしまう気がする。そして、今を正解にするために過去が味気ないものに塗り固められてしまうのであればおそらくそれは間違ってる。
振り返ることは決して悪いことじゃないけれど、過去の思い出に執着していてもなんの価値などないのだ。「そこには戻らない」という意思があるからこそ、美化したのも含めてたくさんある思い出が無用に愛おしく輝く。

 与えて奪うのは何も与えないよりずっと残酷

永遠の時間を持っていても大切なものを失う準備なんてできない

先日読んだ漫画「銀河の死なない子どもたちへ」の中での台詞がずっと脳裏に焼き付いて離れない。一見、この文脈には全然関係のない台詞のようだけど他人事にはどうしてか思えなかった。誰といても、何をしていても、一生そうなんだと思う。誰しもが何かを失いながら生きていく。でも、それでいい気がするんだ。そう思うとなんだか心穏やかになれる不思議さを、わたしはまだ説明できそうにないけれど。

いつかのあなたと過ごした日々を慈しみ、思い出に寄り添うことが、あなたに会いに行けるただ唯一の方法。会いに行くかどうかは別として、会いに行ける方法があるということがひとつの供養になるのかもしれない。もはや祈りにも似ている。

二度と届けられない愛に悲しんでいたいつかのわたしと、わたしの届かぬあなたへ愛のある日々を栄光の結末を。どうか。

絶望が希望そのものということにぼくたちはいつまでたっても気付かない

相変わらずタイトルがながいんだけど、先週の土曜日ついに“Hikaru Utada Laughter in the Dark Tour 2018”に行ってきたから綴らせてくれ。
2018年のライブ納めになるかもしれないこの日を、どんなに心待ちにしていたことかわからない。

朝からエンドレスリピートで聴いていたのはだいすきな『光』。
いつだって「最悪の事態」ばかりを先立って考えてしまう自分に「もっと今を味わうことを楽しむんだ」と勝手に励まされている。君という運命に見つけられてしまったわたしたちは、どう足掻いても翻弄されてしまうから。

youtu.be

どんな時だって たった一人で
運命忘れて生きてきたのに
突然の光の中 目が覚める 真夜中に

静かに 出口に立って
暗闇に光を撃て

今時約束なんて 不安にさせるだけかな
願いを口にしたいだけさ
家族にも紹介するよ
きっとうまくいくよ

どんな時だって ずっと二人で
どんな時だって 側にいるから
君という光が私を見つける 真夜中に

うるさい通りに入って
運命の仮面をとれ

先読みのし過ぎなんて 意味の無いことは止めて
今日はおいしい物を食べようよ
未来はずっと先だよ
僕にも分からない

完成させないで もっと良くして
ワンシーンずつ撮っていけばいいから
君という光が 私のシナリオ映し出す

もっと話そうよ 目前の明日のことも
テレビ消して 私のことだけを見ていてよ

どんなに良くたって 信じきれないね
そんな時だって側にいるから
君という光が私を見つける 真夜中に

もっと話そうよ 目前の明日のことも
テレビ消して 私のことだけを見ていてよ

もっと話そうよ 目前の明日のことも
テレビ消して 私のことだけを見ていてよ

どんな物語にも続きがあって、ハッピーエンドでちゃんちゃん。という訳にはいかないのが現実だ。
「光」を見つけた先に何が待っているのか、とふと考えることがあるけれど、この曲は“君という光を私が見つける”のではなく、“君という光が私を見つける”と歌う。運命に逆らうように孤独のなかを佇んでいたというのに、眩く照らされて知るのは微かな祈り。照らされたあとも歩む道は尚も真っ暗な世界だけれど、“君という光”がいるから暗闇のなかでも進んでいけるのだ、とわたしには聴こえる。

 

12/08 幕張メッセ公演 セトリ 

1. あなた
2. 道
3. travering
4. Colors
5. Prisoner Of Love
6. Kiss & Cry
7. SAKURAドロップス
8. 光
9. ともだち
10. Too Proud
11. 誓い
12. 真夏の通り雨
13. 花束を君に
14. Forevermore
15. First Love
16. 初恋
17. Play A Love Song

アンコール

18. 俺の彼女
19. Automatic
20. Goodbye Happiness

幕張メッセは本当に遠くて、行くだけでもなかなかな気力を要したし、幕張自体は音響も決していいものではなかったけれど、それすらも払拭してしまう煌めきがライブにはあった。
多分、世間ウケ100%ではないと思われる『ともだち』『Too Proud』『俺の彼女』がちりばめられているのがとてもバランスよくてよかったし、『Kiss & Cry』のアレンジ後半『Can You Keep A Secret? 』が使われていて、それがもう痺れるくらいかっこよかった。“これが彼女が聴かせたい宇多田ヒカルの音楽(絶望のなかの希望)なんだな”と納得しかなかった。
絶望のなかの希望を歌うことは容易じゃない。絶望があるから希望を持つことができるということは頭で分かっていても、表現するにはとてもセンシティブな感性と技術力が必要だ。寄り添うために想像力は必要だけれど、誰かの絶望を想像力で賄おうとするのは非常に想像力の無い行為に等しいことだから。

 

ライブを目の当たりにしながら、今年一年のことが、走馬灯のようにわたしの身体を駆け巡っていた。
新ALの発売、12年ぶりのライブ開催を発表し、SONGSにプロフェッショナルへの出演、一夜限りのラジオ復活とめまぐるしく活動されていたヒッキ―こと宇多田ヒカル氏。

もしかしたら、わたしたちは“自分の意思とは関係なく変わりゆく自分自身や自分を取り巻くこの世界をどう引き受けていくのか”ということを宇多田ヒカルにまざまざと見せてもらっていた1年だったのかもしれない。

誰かが決めつけた“ハッピーエンド”や“バッドエンド”にしても、自分の良い部分も悪い部分も全て認めてその先を見せてくれるなんて至極難しいことだ。
その軌跡が生きるということなら、わたしたち人間はなんて複雑で健気で儚く美しい生き物なのだろう。
ずっと見ていられたならと、願わずにはいられないよ。

やさしくない世界で生きるやさしいわたしとあなた

誰かを助けたいと思うとき、救われたい、もしくは救われているのは私の方かもしれないと、いつも思う。こんな自分が、他の誰かを助けられるなんて微塵も思っていないし、非常におこがましい話しなんだけれども。 

思えば今年は誰かを長期間に渡って励ますことがとても多かった気がする。もちろんたくさん励ましても貰ったのだけど、よりによって信じたいと思っている人に「甘え方が可愛くない」と理不尽に追い詰められるような悲劇も多かった。

「海溝のように溝が深い」と無意味なカテゴライズで分け隔てられて「だからわたしには手に負えない」と声高らかに宣言されても、甘え方の上手さ・下手さで友達を分別したことがわたしはないからそこは分かり合えそうにない。蓄積した疲労の上に容赦なく傷つけられて、なんとか立ち上がるにはすべてに目を瞑り、無条件降伏で受け入れて「そうだね、ごめんね」と謝ることしか成す術がなかった。
わたしはわたしが好きな友人が、たとえ甘え方が下手だったとしても愛すると思う。甘え方の下手さに可愛げのなさを見出すより、疲れているのかな?と相手の感情の機微や態度の変化に注視するだろうし、「おかしいな」と思う自分自身の感受性を疑うことはあっても、むやみに相手を否定したりしない。これからもできるだけしたくないと強く思う。

今年は「あぁ、もう本当にだめかもしれない」と思うことが3回あった。
「大丈夫?」と聞かれたら、「大丈夫!」と答えてしまういじらしさがわたしにはある。好きな人相手なら、心配をかけたくないから尚更だ。だからこそ、自分が心を寄せたい人には「大丈夫じゃない」と言える勇気を持つことは、わたしにとってなによりも重要で最大の意思決定だといつしか思うようになった。でも、その勇気すら持てないときはどうすればいいかなんて考えてすらいなかったから、3回のうち2回はだいぶきつかった。
「だめかもしれない」と思うことすら怖くなってしまったらもういよいよだ。自分が自分でなくなっていく感覚、臆せず震えず涙せずにいられるわけがない。「大丈夫じゃない」と言う勇気を持ち続けることがわたしの希望で、まさかその灯火が消えてしまうことなんて本当に想定していなかったことだ。堪えきれずに大声で泣きながら親友に電話で打ち明け、這いずるように帰った夜道を思うとまだほんのすこし胸の奥が痛む。

そんななかで、誰かに「大丈夫だよ」と言う度に、自分自身を励ましてくれる人を切望したし、「きみは大丈夫だよ、きみがきみ自身を信じられなくてもわたしは信じているから」と声をかけながら、同じように自分もそう言われたくて仕方なかったのだと気付いたのだった。いつもいつも考えすぎて常にパンクしそうだったから「そんなふうに考えなくて大丈夫だよ、考えすぎだよ」と誰かに微笑んでほしいといつも願っていた。 

「大丈夫?」と聞かれたら、条件反射のように「大丈夫」と言ってしまうから、自分が信じる人には「大丈夫じゃない」とそう言える勇気を持つこと。それがわたしにとっての甘え方で、その甘え方はたとえ周りに間違っていると言われたとしても、それもいい、と誰より自分自身が信じるしかない。そして信じ切った先に、そんな自分を「それでいいんじゃない」と言ってくれる人はきっとこの世のどこかに1人はいると祈るしかないのかもしれない。だからなのか、この間の美しい月光のように突然現れることがある。降り注いで、奪い去るように救ってくれた夜。

半ば交通事故のような思いがけない出来事だったけど、ああやって突然訪れる一瞬の奇跡はそうそう何度もないだろうな。今なら誰かにひとおもいに殺されてしまったとしても仕方ないなって本気で思ったほどに、あれはとんでもなく素晴らしい奇跡だった。いるかどうか知らないけどありがとう神様。

特にこの夏は、“まだなにか手段があったのかもしれない”“おこがましくも支えれたかもしれない”と、止められなかった流れをただただ想っていた。わたしが救いとることのできなかった流れを。そう自問自答し続ける日々の先に見つけた言葉は、“これから先も、何かあったときには「力になるよ」と言える自分であること”。そして、“「大丈夫だよ」と相手を強く信じて押し付けることなく辛抱強く待つこと”“純粋に微笑みを渡すこと”。
見守るという形で寄り添うことは簡単じゃないけれど、できるだけそう在りたいと思う。 そして何度も繰り返すけれど、そう静かに思うたびに、それはわたしが1番欲しかった気持ちなのかもしれないと再認識する。
そうやって 自分が抱える痛みや切実さから目を逸らさずに堅実に向き合うことは、自分のなかの「寄り添う」を再定義することに等しい行為だったと思う。昔からこうやって変わってきたんだ。何もかもが変わっていくなかで、変わらないものがあるとするならいつだって、変わることを恐れずに変わっていこうとする自分自身の姿だ。そのことは誰よりも自分に勲章を捧げよう。そしてこう言おう、「元気のないきみも笑顔のきみも、大切なひとりであることに変わりはない」と。

最近は身近な人からの理不尽なことが起こっても樹木希林さんの言葉を思い出して気持ちを静めてる。(ほかのエントリーにも書いたけど再掲載)

夫・内田裕也さんについて
ーああいう御しがたい存在は自分を映す鏡になる 

 それから、これも。

おごらず、人と比べず、面白がって、平気に生きればいい

この言葉を思い出すとき、一緒に映画『ぐるりのこと。』で話された台詞も思い出す。

平気、平気。平気で生きるの。
描くのも技術なら、生きるのも技術なんだから。 

タフネスに生きるには、うんと、やさしくあらなくちゃいけない。やさしくあるにはなによりも自分自身を知ることだ。それはとてつもなく孤独な作業だけれど、わたしたちはいつだって自分を介してでしか人と繋がれない。それは、“あなたやわたしは決してひとりではない”という事実でもあるのだ。

ごめんねばかりでいつもごめんね

なぜかいまだに好きになれないバンドの曲を、彼らが解散してずいぶん経った今になってヘビロテしている。

みんながいうほどボーカルがかわいいと思えなくて(かわいいと言ってるやつ全員嘘つきだと本気で思ってる)「ちょいブスだけど音楽いいんだよね」っていう人が仮にひとりいたならきっとこんなふうに思わなかっただろうとすら思う。(自分で言うけど本当に失礼)そもそもわたしは、かわいいとかかわいくないとか、そういった評価とは遥か遠いところで作られた曲が聴きたいんだ。
どうも好きになれないとかなんとか言いながら、今になって繰り返し聴いてしまうのはなぜなんだろう。執拗に「ごめんね」と歌う声が耳の奥でこだまする。

あなたのことは好きになれなくても、あなたたちの作ったこの歌は意味が分からないからこそ美しく煌めいていて好きだ。
youtu.be

このところのわたしは、すぐに気持ちが溢れてしまうから「ごめんね」と言いながら笑って、「ありがとう」と言いながら泣いてばかりいる。
そんなわたしを、彼はどうしていいか分からない頭を抱える代わりにただただわたしを黙って抱きしめてくれる。たまに「大丈夫だよ」「泣かないで」と頭を撫でてくれるのがとてもやさしいから、その心地よさにわたしはますます泣いてしまうのだった。
一緒にいるときは出来るだけ楽しく居たいと思っているけど、隠し切れなくて途方に暮れてしまうくらいなら、いっそのこと不安や不満に怯えて漫画みたいに震えてしまう身体すらもまるごと渡してしまおうと思った。ふたりで途方に暮れる夜も悪くはないのだと教えてくれる彼の存在は、1週間前とは少し違ってみえる。

時々、わたしたち奥底の方ですこし似ているのかも、と思うことがある。けれど、その思いはすぐに裏切られてしまうくらいにはまるで違うふたりだとも思う。渡したものを取りこぼされたとしても、今のわたしたちに出来ることはただ一緒にいて、冷えた指先さえもがあたたまるようにと抱き合うことだ。

「自分の人間関係や生活が変わってしまうことが怖かったんだけど、同じように君も悩んでるんだと知って覚悟を決めたんだよね」と話してくれた彼の真意がまだわたしには届かないけれど、たまたま見返していたツイッター宇多田ヒカルのラジオについて綴っている自分のツイート(メモ)を見つけた。

ー愛とはなにかという質問に対して
(子育てをするようになって思うのは)
愛とは感情とかではなくて覚悟
誰かを愛すると決めること
それを意識的に行うこと
そして、相手に愛されてるっていう感覚を与えようとする、
感じさせてあげること

 「覚悟を決めた」と言われたってしっくりくるわけではないけれど、彼なりにわたしを大切に想っていてくれていることが明確に知れて嬉しかった。そして、怖かったのはわたしだけじゃなかったのだな、と改めて知ったのだった。

「自分の家族の在り方に自信がなくて、わたしがわたしでいること以上になにもあなたにしてあげられない」と泣いた夜に「そんなこと求めていない」と言ってくれたこと、「俺は俺の家族に自信…(すこし溜めてから)あるよ」と言われてふたりして笑いあったこと。
あぁ、あなたは祝福されて生まれてきたんだね。心からそう純粋に思える自分になんだか誇らしくもなった。背後から鳴り響くのはありもしない教会の鐘と歓喜のファンファーレ。とても素晴らしく恵まれているあなたがそばにいてわたしを照らしてくれているなんて、誰が予想していただろう。わたしたち本人ですら考えていなかったことだ。(彼はわたしと付き合ったら、ということを考えたことがあると言っていたけれど)

それでも、わたしたちもう手放しで好きでい続けられる年齢では残念ながらないから、だらだら付き合い続けるのは避けたいこと、少し前に話したことがあったけれど、わたしはわたしが大丈夫でいられるために近い将来家族を作りたいと思っていることを改めて打ち明けた。
だから、とりあえず1年一緒にいよう。1年後どうなるかは見当もつかないけれど何かしらの答えをだそうね、と言い放った矢先に、別れを先延ばしにしているだけかな?と怖くなって泣きだしそうになった。そんなわたしを強く抱きしめてくれた彼のぬくもりを、何に置いても忘れない1年にできますようにとやっぱり泣きながら祈った。
泣きやんだ頃に、無邪気な気持ちを持ち合わせて「次に生まれ変わる時は、あなたの両親の子どもにしてね。飼っている猫でもいいよ」といたずらっ子のような顔で笑って見せたけど、わたしの願いはきっとずっとあなたの手の中にありつづけるような気がしている。