より道の多い人生

生き恥晒して生きていく

わたしの届かぬあなたへ愛のある日々を

こんなにもやわい力で、これでもかと言わんばかりにやさしさとさみしさを詰め込み、せつなさにしっとりまみれた手紙をもらうことはもう二度とないのだろう。


人が生きる一生のあいだに、強く心を惹かれるものとの出会いは、それほど多くはないのだと思う。誰かや何かを好きになることは奇跡みたいなことだから、自分の心が強く惹かれたものには嫌われてもいいから、傷ついても、ダメになってもいいから、素直に、正直に、恐れながらもありのままぶつかっていきたい。そう切実に思っている。

年末の片づけをしていた先日、あの人からもらった“最後”の手紙を見つけた。
ふと読み返してみると、わたしのことをよく知ったうえで、ちゃんと自分の想いを伝えようとする意志も感じられるセンスのいい手紙だと感じた。途端に「あぁ、わたしはこんなふうに言葉を紡いで伝えようとしてくれる人を失ってしまったんだ」という気持ちに苛まれてすこし困ってしまった。
わたしはもう、新たな道を歩んでいる。あのころには想像もしていなかった未知の人生を。

見方捉え方を変えれば、それはきっとあの人だって同じなはずだ。あのときに見えなかったものが今になってよく分かるのは、あのころを経た今の自分だからこそであって、砂時計をいくらひっくり返してもそれは変えることのできないまぎれもない事実だ。
今の自分を通してじゃないとあのころの自分なんて分からない。そうじゃないと今が嘘みたいになってしまう気がする。そして、今を正解にするために過去が味気ないものに塗り固められてしまうのであればおそらくそれは間違ってる。
振り返ることは決して悪いことじゃないけれど、過去の思い出に執着していてもなんの価値などないのだ。「そこには戻らない」という意思があるからこそ、美化したのも含めてたくさんある思い出が無用に愛おしく輝く。

 与えて奪うのは何も与えないよりずっと残酷

永遠の時間を持っていても大切なものを失う準備なんてできない

先日読んだ漫画「銀河の死なない子どもたちへ」の中での台詞がずっと脳裏に焼き付いて離れない。一見、この文脈には全然関係のない台詞のようだけど他人事にはどうしてか思えなかった。誰といても、何をしていても、一生そうなんだと思う。誰しもが何かを失いながら生きていく。でも、それでいい気がするんだ。そう思うとなんだか心穏やかになれる不思議さを、わたしはまだ説明できそうにないけれど。

いつかのあなたと過ごした日々を慈しみ、思い出に寄り添うことが、あなたに会いに行けるただ唯一の方法。会いに行くかどうかは別として、会いに行ける方法があるということがひとつの供養になるのかもしれない。もはや祈りにも似ている。

二度と届けられない愛に悲しんでいたいつかのわたしと、わたしの届かぬあなたへ愛のある日々を栄光の結末を。どうか。