より道の多い人生

生き恥晒して生きていく

やさしくない世界で生きるやさしいわたしとあなた

誰かを助けたいと思うとき、救われたい、もしくは救われているのは私の方かもしれないと、いつも思う。こんな自分が、他の誰かを助けられるなんて微塵も思っていないし、非常におこがましい話しなんだけれども。 

思えば今年は誰かを長期間に渡って励ますことがとても多かった気がする。もちろんたくさん励ましても貰ったのだけど、よりによって信じたいと思っている人に「甘え方が可愛くない」と理不尽に追い詰められるような悲劇も多かった。

「海溝のように溝が深い」と無意味なカテゴライズで分け隔てられて「だからわたしには手に負えない」と声高らかに宣言されても、甘え方の上手さ・下手さで友達を分別したことがわたしはないからそこは分かり合えそうにない。蓄積した疲労の上に容赦なく傷つけられて、なんとか立ち上がるにはすべてに目を瞑り、無条件降伏で受け入れて「そうだね、ごめんね」と謝ることしか成す術がなかった。
わたしはわたしが好きな友人が、たとえ甘え方が下手だったとしても愛すると思う。甘え方の下手さに可愛げのなさを見出すより、疲れているのかな?と相手の感情の機微や態度の変化に注視するだろうし、「おかしいな」と思う自分自身の感受性を疑うことはあっても、むやみに相手を否定したりしない。これからもできるだけしたくないと強く思う。

今年は「あぁ、もう本当にだめかもしれない」と思うことが3回あった。
「大丈夫?」と聞かれたら、「大丈夫!」と答えてしまういじらしさがわたしにはある。好きな人相手なら、心配をかけたくないから尚更だ。だからこそ、自分が心を寄せたい人には「大丈夫じゃない」と言える勇気を持つことは、わたしにとってなによりも重要で最大の意思決定だといつしか思うようになった。でも、その勇気すら持てないときはどうすればいいかなんて考えてすらいなかったから、3回のうち2回はだいぶきつかった。
「だめかもしれない」と思うことすら怖くなってしまったらもういよいよだ。自分が自分でなくなっていく感覚、臆せず震えず涙せずにいられるわけがない。「大丈夫じゃない」と言う勇気を持ち続けることがわたしの希望で、まさかその灯火が消えてしまうことなんて本当に想定していなかったことだ。堪えきれずに大声で泣きながら親友に電話で打ち明け、這いずるように帰った夜道を思うとまだほんのすこし胸の奥が痛む。

そんななかで、誰かに「大丈夫だよ」と言う度に、自分自身を励ましてくれる人を切望したし、「きみは大丈夫だよ、きみがきみ自身を信じられなくてもわたしは信じているから」と声をかけながら、同じように自分もそう言われたくて仕方なかったのだと気付いたのだった。いつもいつも考えすぎて常にパンクしそうだったから「そんなふうに考えなくて大丈夫だよ、考えすぎだよ」と誰かに微笑んでほしいといつも願っていた。 

「大丈夫?」と聞かれたら、条件反射のように「大丈夫」と言ってしまうから、自分が信じる人には「大丈夫じゃない」とそう言える勇気を持つこと。それがわたしにとっての甘え方で、その甘え方はたとえ周りに間違っていると言われたとしても、それもいい、と誰より自分自身が信じるしかない。そして信じ切った先に、そんな自分を「それでいいんじゃない」と言ってくれる人はきっとこの世のどこかに1人はいると祈るしかないのかもしれない。だからなのか、この間の美しい月光のように突然現れることがある。降り注いで、奪い去るように救ってくれた夜。

半ば交通事故のような思いがけない出来事だったけど、ああやって突然訪れる一瞬の奇跡はそうそう何度もないだろうな。今なら誰かにひとおもいに殺されてしまったとしても仕方ないなって本気で思ったほどに、あれはとんでもなく素晴らしい奇跡だった。いるかどうか知らないけどありがとう神様。

特にこの夏は、“まだなにか手段があったのかもしれない”“おこがましくも支えれたかもしれない”と、止められなかった流れをただただ想っていた。わたしが救いとることのできなかった流れを。そう自問自答し続ける日々の先に見つけた言葉は、“これから先も、何かあったときには「力になるよ」と言える自分であること”。そして、“「大丈夫だよ」と相手を強く信じて押し付けることなく辛抱強く待つこと”“純粋に微笑みを渡すこと”。
見守るという形で寄り添うことは簡単じゃないけれど、できるだけそう在りたいと思う。 そして何度も繰り返すけれど、そう静かに思うたびに、それはわたしが1番欲しかった気持ちなのかもしれないと再認識する。
そうやって 自分が抱える痛みや切実さから目を逸らさずに堅実に向き合うことは、自分のなかの「寄り添う」を再定義することに等しい行為だったと思う。昔からこうやって変わってきたんだ。何もかもが変わっていくなかで、変わらないものがあるとするならいつだって、変わることを恐れずに変わっていこうとする自分自身の姿だ。そのことは誰よりも自分に勲章を捧げよう。そしてこう言おう、「元気のないきみも笑顔のきみも、大切なひとりであることに変わりはない」と。

最近は身近な人からの理不尽なことが起こっても樹木希林さんの言葉を思い出して気持ちを静めてる。(ほかのエントリーにも書いたけど再掲載)

夫・内田裕也さんについて
ーああいう御しがたい存在は自分を映す鏡になる 

 それから、これも。

おごらず、人と比べず、面白がって、平気に生きればいい

この言葉を思い出すとき、一緒に映画『ぐるりのこと。』で話された台詞も思い出す。

平気、平気。平気で生きるの。
描くのも技術なら、生きるのも技術なんだから。 

タフネスに生きるには、うんと、やさしくあらなくちゃいけない。やさしくあるにはなによりも自分自身を知ることだ。それはとてつもなく孤独な作業だけれど、わたしたちはいつだって自分を介してでしか人と繋がれない。それは、“あなたやわたしは決してひとりではない”という事実でもあるのだ。