より道の多い人生

生き恥晒して生きていく

きらめきも、どよめきも、一切合切

別れなんて、どんな経路を辿ってもあっけないものだ。だから、そうするしかもう術がないと悟ったとき、その道を臆せずに進もうと静かな気持ちで思った。
そして、「まだどうにかできるかもしれない」「なにかやりようがあるかもしれない」なんて考える余地すら残さず、予想していた以上のあっけなさでその瞬間を迎えたのだった。


数日たった今、感じているのは、別れたことよりも、それ以上に「付き合っていた」自体の実感がまるでない不思議さだ。
あらためて彼と過ごした日々の日記を読んでみるけど、あまりの温度差にまるで同じ対象人物だとは思えないほど、彼は遠い人になってしまった。
読み進めるほどに、「悲しい」気持ちをはるかに飛び越えて、不思議なことにすこし懐かしさすら感じてしまう。でも、それは相手に対してのものじゃない。自分の感じ方、言葉の紡ぎ方、出合い方そのものに対してだ。写真を眺めたって、どうにも他人事にしか思えないでいる。

別れを告げるまではあんなに苦しかったのに、台風一過というお天気も手伝って、今やどこ吹く風と言わんばかりに清々しい風を感じられる。

 

もちろん、一滴も悲しくないわけじゃない。悲しみは日々のなかに潜んでいて、何かをフックにして突然グラデーションのように現れる瞬間がある。それでも、付き合っていた時のほうがよっぽど苦しくて仕方がなかったから、感じることがあるとするならむなしさのほうなのかもしれない。

思えば、ぞんざいな扱いを受け続けたこの5か月間、毎朝の連絡もおやすみのキス(に値するなにか)も、「この人のもとに還っていいんだ」とじんわりあたためられることも、「わたしがわたしでいてもいいのだ」と肯定できることもなにひとつなかった気がする。
そうしているうちに、わたしはそれまでわたしが大切にしていた「当たり前に思えることなんてなにひとつない。だから当たり前をちゃんと紡いでいく。」ということが、どんどん崩れていったのだった。
気が付いたときには、日々の生活の中で生きる喜びすらも見出せなくなってしまったのですっかり途方に暮れてしまった。何も失っていないはずなのに、何かを失っている気分だった。

 
大切に想っている相手だからこそ、できることなら別れたくはなかった。一緒にどう乗り越えていくかを考えることのほうが人生を生きる上でよっぽど大事なことだった。

たとえ、髪の毛を変えても何も言ってくれなくとも、次のデートはおろか、今週末の予定や会えるのかすらわからなくても(果てには「俺の予定を全部言うつもりはない」と言われたとしても)。

彼のためじゃなく、わたしがわたしのためにしていることで、それらすべてを把握したり、理解したりしてほしいとは思っていなかったけど、わたしがどんなことを考えているのかとか、そのことに少しは関心を持ってほしかった。
もっと言うなら、キスやセックスの時くらい言われなくとも「好きだよ」とか「可愛いよ」くらい言ってほしかった。それは、わたしのワガママだったのだろうか?好きな人(ましてや恋人)に好きと言ってもらうことは甘えることは贅沢なこと?

それでも、一緒に居ておいしいものを食べて、同じ景色を共有して笑いあうことが大事だった。だから、小さなシミはそんなに気にならないと、会いに行けるときにはせっせと会いに行った。
小さなシミだと、そう思おうとしていたんだと思う。そうやって、自分の喜びや希望をあまりに蔑ろにしすぎた。ひとりでは漂泊する間もなく、どんどん広がってどうしようもなく手遅れだった。

親友に「憔悴するような相手じゃないよ」と言われても、わたしにしかわからない彼を見てきたつもりだったし、ふたりで力を合わせれば解決できると信じていた。 今となっては意味を成さない、余計な自問自答なのかもしれないけれど、名目上、付き合ってたときのほうがどこか彼を守ろうとしていた。でも、一体何から?わからない…。

 

『別れても別れなくてもつらいなら、より人生が進むほうへ。歓びも、悲しみも、人生を豊かにするためにあるのだから。』そう思った自分を大袈裟なまでに褒め称えたい。あぁ、出来ることならわたしは褒めあって生きていきたいよ。

別れを告げる瞬間は、やっぱり泣いてしまったけど、今の自分がやれるすべてはやったし、残らないほどに自分を渡しきったと思う。やり切った。頑張った。でもダメだった。だから、もういい。これでいい。

うまくいかなくなってからの5か月間は、別れるために必要な時間だったし(ふと我に返ったかのように「5か月も経ったの?!マジ??!?!」ってなることもあるけど笑)、たくさんの感情・言葉に出合えたことは感謝したい。譲れない自分の大切なものがなにであるかをはっきりと自覚させてくれた。
あとは、予想もしていなかった人と付き合って、予想もしていなかった未来を生きていることのうれしさ。将来への不安も含めて、今まで考えたこともなかった自分の人生の選択肢を、その可能性があるかもしれないんだ、ということを教えてくれたことは、自分の人生史上きらめきだった。残念ながら、今回は一瞬だったけれど。

最後にひとつ、自分に残しておきたい。
『迷いながらも、その答えに辿り着ける自分でよかった』と、心から思えたことは、なによりも誇らしく思っても、いいんじゃないかな。

きらめきも、どよめきも、一切合切味わい尽くした。たとえ、もう少しあとで残ったものが痛みだったとしても、その痛みすらも生きていることを感じさせてくれる宝物だよ。