やがて、ぜんぶ大丈夫になるよ
苦しいからこそなにひとつ書けないんだけれど、苦しくて書けないというときほど書かなきゃいけないような気がしている。
そんなことは決してないよ、と愛おしい誰かは言ってくれるだろう。
「自分を大切にして」「ゆっくり休んで」「ひとりじゃないから」と言ってくれるやさしい人たちの声が、ゆっくり胸に染み渡る。
のたうち回るような今のこの苦しさも、数年後にはきっと笑い話になってることも分かってる。
「いつか、こんな気持ちも笑い話になるよね」
「大丈夫。きっともっと大丈夫になると思う。」
自分に言い聞かせるように吐き出した言葉に、秒速のはやさで「なるよ、余裕」って返してくれた友達の存在がとんでもなく心強すぎてまぶしかった。そうだね、余裕だ。
でも、どうしようもなく思う。
この嵐を、吹き付ける風を、雨を、逃しちゃいけない。この苦しさを苦しいまま、ちゃんと捉えておかないといけない。
同じ過ちを繰り返してしまうのは、苦しみをいずれ忘れてしまうからだ。
わたしたちは何度も忘れてしまう。
たぶん、それが生きていくことだから。
そして、わたしはどうも根本からこの嵐を愛してしまっているような質がある。
作家でもなんでもないのに「書かなきゃ」という気持ちに駆り立てられつつ、あまりの苦しさを前に「書けない」とひれ伏すコントを、ここのところ繰り返してばかりいる。
書けば、苦しくともやがて自分史になる。
自分が切実に、懸命に生きた証拠を残したい。
それなのに、吐露とは違って苦しさの痕跡を記しておくことは、積み重なった出来事をなぞることと等しく、生傷をえぐるようであまりに痛い。
苦しみを受け入れるには必要な過程だとしても、できることならしないほうがいいということなんてきっと捨てるほどこの世にはある。阿鼻叫喚なんて、本当はしなくてもいいのに止められない。時間が癒してくれる傷は確実にあるのを知ってて、そこから全力で逃げようとしているのかもしれない。
本当は最短距離で楽になりたい。なんにも考えたくない。
でも、習慣がそれを許さない。もっと楽な生き方なんていくらでもあるはずなのに、どうしてわざわざいばらの道を選ぶのか我ながら甚だ疑問だけれど、こうして生きてきたんだよな、とも開き直っている。いつものことだ。
だから、書きたいんだ。
忘れないために書くのではなくて、より遠くにいくために書かなきゃいけないのだと思う。
だれよりも、どこよりも、うんと遠くへいくために。
・・・
「この人といるときの自分が好きだ」と思えたことは、29年間生きてきた人生で、初めてだった。
米櫃に、計量カップを深く沈める君がいう「宝探し」。
そのきらめきがとても好きだった。そういうことを、留めておきたいと思う自分が嬉しかった。
どうしてもこのきらめきを守りたいと思っていた。想定したことのない人生の、新しい「幸せ」のあり方だと思った。
だから、今とてつもなく、苦しい。
苦しい、と思うこともやがてわたしの糧になる。
今のわたしにできることは、つらいときに寄り添ってくれなかった彼を責めることではなくて、同じような状況に大切な人が陥ったときに、どう自分が相手にしてあげられるかだ。
まずは、自分を自分でいいと思えるようになること。理想とは程遠くても、自分なら大丈夫と強く信じること。
そして、相手や周りの人の人生にどう関わり、いい影響を与えられるか。
こんな嵐の中で、湧き上がるようにそう思えた自分がすこし誇らしかった。
親友や友達からの愛を一心に受け取って、栄養にして、ちゃんと導き出せた。
こんなにも、愛されていることに気付けないのだとしたら、それこそ正真正銘の馬鹿だ。阿呆だ。そんな風に生きてきた覚えはない。
このすべてのきっかけをくれた彼。
ほんとうに、ほんとうに、きみがきみでいること、そのすべてがだいすきだった。
たとえ、近いうちにこの恋を失ったとしても
わたしは感謝の気持ちを失うことなく前に進んでいけるよ。
今はまだ苦しくても、大丈夫。
やがて、ぜんぶ大丈夫になる。