より道の多い人生

生き恥晒して生きていく

たとえば、

自分が思うよりも、もっとずっと自分という人間がややこしくて複雑なんだろうな、と思い巡らすときに思うのは『いつも、そういう役回りなんだって思ってる』瞬間だ。

 

たとえば、何度か予定を聞いたけれどなかなか教えてもらえなかったりとか、普段は恥ずかしくてとてもじゃないけど考えもつかないようなことをお願いしたけれど相手があんまり乗り気じゃない様子だったりとか。

対象者とわたしを隔たるわずかな溝みたいなものを思う。
縮まらないからこそその距離が愛おしいことはあっても、できることなら溝は埋めてしまいたい。正義のような正しさは求めていないから、なるだけフラットでいたいと思っているのだろう。

そうやって、周りにはどうってことのないわたしのささやかな変化みたいなものを、ほんの少し後回しにされて少し雑に扱われたり、ほんの少し蔑ろにされてしまうことについて、

誰が、とかじゃなくて
それは、もうそういう役回りなんだと思ってる。
そう思うことにして、生きている。

こんなこと、恐らくこの先の人生には何度もあることで、「またか」と思うときこそ、そういう役回りなんだから仕方ないか、と思うことにしている。

だから、時々は絶望感に打ちひしがれて悲しんでみせたり、怒ってみせたりするのも、そういう役回り。みんな、そういう演技をしているんだ。みんなにだって回ってくる役回りなんだ。


踊ってるのか踊らされてるのか、気づいているのか気づいてないのか、そんなのは知ったこっちゃないけれどそれでいいんだと思うときだってある。


たとえば、今日みたいな夜には。