より道の多い人生

生き恥晒して生きていく

ごめんねばかりでいつもごめんね

なぜかいまだに好きになれないバンドの曲を、彼らが解散してずいぶん経った今になってヘビロテしている。

みんながいうほどボーカルがかわいいと思えなくて(かわいいと言ってるやつ全員嘘つきだと本気で思ってる)「ちょいブスだけど音楽いいんだよね」っていう人が仮にひとりいたならきっとこんなふうに思わなかっただろうとすら思う。(自分で言うけど本当に失礼)そもそもわたしは、かわいいとかかわいくないとか、そういった評価とは遥か遠いところで作られた曲が聴きたいんだ。
どうも好きになれないとかなんとか言いながら、今になって繰り返し聴いてしまうのはなぜなんだろう。執拗に「ごめんね」と歌う声が耳の奥でこだまする。

あなたのことは好きになれなくても、あなたたちの作ったこの歌は意味が分からないからこそ美しく煌めいていて好きだ。
youtu.be

このところのわたしは、すぐに気持ちが溢れてしまうから「ごめんね」と言いながら笑って、「ありがとう」と言いながら泣いてばかりいる。
そんなわたしを、彼はどうしていいか分からない頭を抱える代わりにただただわたしを黙って抱きしめてくれる。たまに「大丈夫だよ」「泣かないで」と頭を撫でてくれるのがとてもやさしいから、その心地よさにわたしはますます泣いてしまうのだった。
一緒にいるときは出来るだけ楽しく居たいと思っているけど、隠し切れなくて途方に暮れてしまうくらいなら、いっそのこと不安や不満に怯えて漫画みたいに震えてしまう身体すらもまるごと渡してしまおうと思った。ふたりで途方に暮れる夜も悪くはないのだと教えてくれる彼の存在は、1週間前とは少し違ってみえる。

時々、わたしたち奥底の方ですこし似ているのかも、と思うことがある。けれど、その思いはすぐに裏切られてしまうくらいにはまるで違うふたりだとも思う。渡したものを取りこぼされたとしても、今のわたしたちに出来ることはただ一緒にいて、冷えた指先さえもがあたたまるようにと抱き合うことだ。

「自分の人間関係や生活が変わってしまうことが怖かったんだけど、同じように君も悩んでるんだと知って覚悟を決めたんだよね」と話してくれた彼の真意がまだわたしには届かないけれど、たまたま見返していたツイッター宇多田ヒカルのラジオについて綴っている自分のツイート(メモ)を見つけた。

ー愛とはなにかという質問に対して
(子育てをするようになって思うのは)
愛とは感情とかではなくて覚悟
誰かを愛すると決めること
それを意識的に行うこと
そして、相手に愛されてるっていう感覚を与えようとする、
感じさせてあげること

 「覚悟を決めた」と言われたってしっくりくるわけではないけれど、彼なりにわたしを大切に想っていてくれていることが明確に知れて嬉しかった。そして、怖かったのはわたしだけじゃなかったのだな、と改めて知ったのだった。

「自分の家族の在り方に自信がなくて、わたしがわたしでいること以上になにもあなたにしてあげられない」と泣いた夜に「そんなこと求めていない」と言ってくれたこと、「俺は俺の家族に自信…(すこし溜めてから)あるよ」と言われてふたりして笑いあったこと。
あぁ、あなたは祝福されて生まれてきたんだね。心からそう純粋に思える自分になんだか誇らしくもなった。背後から鳴り響くのはありもしない教会の鐘と歓喜のファンファーレ。とても素晴らしく恵まれているあなたがそばにいてわたしを照らしてくれているなんて、誰が予想していただろう。わたしたち本人ですら考えていなかったことだ。(彼はわたしと付き合ったら、ということを考えたことがあると言っていたけれど)

それでも、わたしたちもう手放しで好きでい続けられる年齢では残念ながらないから、だらだら付き合い続けるのは避けたいこと、少し前に話したことがあったけれど、わたしはわたしが大丈夫でいられるために近い将来家族を作りたいと思っていることを改めて打ち明けた。
だから、とりあえず1年一緒にいよう。1年後どうなるかは見当もつかないけれど何かしらの答えをだそうね、と言い放った矢先に、別れを先延ばしにしているだけかな?と怖くなって泣きだしそうになった。そんなわたしを強く抱きしめてくれた彼のぬくもりを、何に置いても忘れない1年にできますようにとやっぱり泣きながら祈った。
泣きやんだ頃に、無邪気な気持ちを持ち合わせて「次に生まれ変わる時は、あなたの両親の子どもにしてね。飼っている猫でもいいよ」といたずらっ子のような顔で笑って見せたけど、わたしの願いはきっとずっとあなたの手の中にありつづけるような気がしている。