より道の多い人生

生き恥晒して生きていく

春、爛漫、家族団欒

先日、父から久々に連絡がきた。
「●●区で事件があったけど、大丈夫か?」という内容だった。

慌ててPCの検索画面に「●●区 事件」と入力すると、数時間前に起こった事件の詳細が露わとなって画面を覆い尽くす。被害者は同世代の女性、犯人はいまだ逃亡中とのことだ。

年齢の近い被害者を『ありえたかもしれない自分』と重ね合わせる。うっかり行き過ぎれば、被害者意識になりかねないような当事者意識を、普段から持ち合わせているからこそ、知らぬ間にかなしみに溶けこんでしまわないよう、かなしいニュースはできるだけこころにいれないようにしてやり過ごしている。HSPだと言われてから、そうやって意識して『やらないこと』を決めねければ、すべてが自分に置き換えられてしまう。
そういった日々のなかで、時々でもこんな風に無条件で自分を案ずる人が居るということを知るのは純粋に嬉しいことだと思った。たとえそれが今は『家族』とは名ばかりの、すっかり遠くにいる存在からだったとしても。

 

なんとなく、今を逃すときっともう、
この気持ちは一生、日の目を見ないままだろうから
まだ、気持ちの落としどころを見つけられないままで綴ろうと思う。

今年の1月にそう記したものの、結局うまくまとめられず下書きにしたままのことを、今改めて加筆して公開してみる。

 

・・・


事前に聞いていた通り、12月30日の午前中にそれは届いた。

午後一で予約している美容室に行かなくてはならず、すこし慌てた気持ちで箱を開ける。同梱されていたのは、丸餅に米菓、ちょっといいレトルトカレーとか。それらをかき分けて、ようやく底のほうから複数のタッパーに収められたおせちと対面したのだった。

お正月くらいでしかみることのない食材を存分に使いつつ、彩りに気を遣い、綺麗に盛り付けられた、なんとも父らしい繊細なおせち料理。相変わらずバランスがいい、と贔屓目なしで思う。

そのとき、わたしの手のひらにあるものは間違いなくわたしが良く知る父で、わたしはなぜか不思議な気持ちに浸りながらそれを慈しんでいたのだった。

父から稀に届く贈りものは、レトルトの食品や缶詰、ちょっと渋いお菓子たちが煙草の匂いにまみれてやってくる。かと思えば、甘みとうま味を十分に蓄えている証拠と言わんばかりにふっくら艶々とひかる人参の旨煮がハートにくり抜かれて、優美におせち料理を着飾っていたりしている。そういう、鈍感さと繊細さが絶妙な塩加減で混在するのがわたしの父だった。わたしは、父のそういう相反するところが大好きだったし、随分苦しめられてもきた。

いくつになっても、一向に貰えそうにない母からのまなざしを代わりに降り注いでくれるのは父だった。
父は太陽そのもので、その暖かさはいつだって容赦ない。情けのない正義感を振りかざす母と比べるとまるで救いのようにも思えるけど、それは“父以外に拠りどころがない”わたしが“最後の希望”として父をヒーローとして仕立てたみたいなところがあったからだ。そうやってしがみついていたものでしかなかった。
そのあとで、父の浮気現場を目撃してしまったわたしは、居場所などとうに残っていなかったことを知る。父はわたしのたったひとりの父であり、ただの男に過ぎず、そんなくだらないものに成り下がった。


いろいろな感情から逃れたい一心で、大切な人すらも残したまま上京して、以来早7年もの月日が経つことに今更ながら驚きを隠せない。いわゆる『一人暮らし』をはじめたのはわたしが高校2年生の頃。同棲やシェアハウスなどを挟みながらも、そこから10年を越える月日が経つ。もう、ずっとひとりだったりふたりだったりでどうにかこうにかやってきた。

そもそも上京してから3年間ものあいだ、お互いまともに連絡すらしていなかったのだ。そこからどうやって再び交流しだしたのかは覚えていない。世間でいう『実家』という形式のものはもうとっくのとうにない。それは、いま振り返れば、家族がかろうじて家族という姿で留めていたときから崩壊していたように思う。

「いつかは無くなる」覚悟を知らぬ間にしてきたけれど、それでも、彼らに対する愛情が皆無という訳ではない。わたしの部屋には「ひとりで生きる」決めた日以来ずっと、わたしが撮った若き頃の両親の写真が飾られている。
家族旅行といえるものをほとんどしてこなかったわたしたち家族だけれど、近所でのお祭りやなんでもない日曜の朝には喫茶店のモーニングへと、よく出かけたのだった。割と仲良し家族と言える部類だった。
その中でも、毎年の恒例行事のひとつだったのが大阪造幣局桜の通り抜け。そこへ行った際に、当時13歳だったわたしが写ルンですで撮った1枚。それは、家族水入らずで出かけた最後の桜の通り抜けだった。

おせち料理らと一緒に同梱されていた父からの手紙は相変わらず達筆で、よく凝らして見ないと読み取れないときもあるほどだ。
手紙を読み終えて、ふいに箱に目をやると、お正月につかうための祝い箸が一膳佇んでいた。わざわざわたしひとりのために、添えられた一膳の祝い箸がわたしに使われるのを待っていた。たったそれだけのことだったのに、それをみた瞬間、涙が溢れ出て止まらなくなったのは本当に一瞬の出来事だった。

あぁ、もう準備して家を出なきゃならないのに。そう思いながらわんわん泣いたあの日の気持ちを、自分でも未だに解明できていない。


・・・

 

ここに記しておこうと思ったのは、たしか年明けにはてこさんの日記を読んだからだったと思う。

はてこさんの日記を読むとどうしようもなく無性に泣きたくなる。わたしが泣いたって何の助けにもならないから泣きはしないのだけれど、はてこさんを抱きしめる代わりにただ文字を見つめ、言葉と対峙し、「どうかこの文章をかく、画面の向こう側にいるこの人がすこしでもだいじょうぶであれ」と、祈っている。

それだけではない、わたしははてこさんに憧れてすらいるのだと思う。

この世に残された言葉はそのひとの世界そのものだ。こんなふうに世界を捉えて、言葉に置き換えられたならな。そこに行き着くまでにどんな痛みや喜びが伴っているのかを私は本当に知ることはないけれど、それでも言葉の端々から漏れ出したものを仮に愛と呼ぶのなら、少なからずわたしはその愛に間違いなく救われている。

 

父がどんなにでたらめで残酷な一面を持っていようが、父の言葉の効果は消えないのである。何かが父にそういわせているのであり、その何かがわたしに好意を持っていることは間違いない。それはそれ、これはこれ。

 

わたしはもう父の名言を父の人格と結び付けて父を慕うことはないが、父が口寄せしてくれた数々の貴重な言葉を、いまも好きな映画の台詞のように時おり思い出す。わたしの人生の脚本家は父にけっこう重要な台詞をいわせるのが好きらしい。最近は出番がないけれど、今後も乞うご期待である。

父の言葉 - はてこはときどき外に出る