より道の多い人生

生き恥晒して生きていく

さみしさもやさしさもくれる波のごとく

自分でも驚くほどに気持ちが落ち着いている。気がする。

ホルモン剤の作用なのかな。それでも昨日はなかなか寝付けれなかった。相変わらず返事は返って来ない。でも、今月は忙しいって言ってたし、あっけらかんな態度で普通に連絡しようと、みんなで飲もうと思って夏先に漬けた梅酒の写真を送った。


不安な気持ちがよぎるといつも「勉強しなきゃ」とか、もっと身になる事をしなくてはって考えてしまう。ひとりになっても大丈夫なように「わたしにはこれが残ってる」と思えるように。だから、勉強しなきゃって強く思うときはたいてい自分に自信が持てれないことへの裏返しでもある。
それでも、悩むために悩むことは堂々巡りだから、もうやめた方がいいと思った。今後どうなるかは、もう少し先で決めよう。考えるにしても、ひとりでは意味がない。今週末は髪の毛を切りにいくから、きれいになったわたしで彼に会いに行く。「会いたかった」と伝えられたらそれでいい。


彼の住む世界は賑やかだ。イメージで言うと、ビーチに集う彼らと彼らを照らす真夏の太陽。住む世界が圧倒的に違いすぎてわたしには眩しすぎる気がするけれど、素直に明るくていいなぁ、と思う。

時折、彼が発する「大丈夫だよ、わかってるよ」とか「そんなことないよ」が、全然大丈夫じゃなかったとしても“そっか、それならいいか”と思わせる節があるのはきっと育ちが良いからなんだろう。育ちのいい人には育ちのいい人が合うに決まってる。そう思ってしまうくらいには捻くれているけれど、今は「そばにいてほしい」という気持ちに素直でいたい。


少し前に、台湾人の男の子に元彼はどんな人だったの?と聞かれて、「あんなに弱くて優しくて、わたしを一生懸命に応援し続けてくれた人はいない」と答えた。
あの人は本当にやさしかった。あのときのわたしはそのやさしさを当然のように思っていたのだろう。底なし沼のようにずぶずぶ甘えていた。
「わたしがこんなに大変なんだから助けてくれて当然でしょ」くらいに傲慢だったと思う。些細なことに固執して、責めて、追い詰めた。今ならそんなことくらいで怒ったり泣いたりしないのに、なんであのときはそんなに許せなかったのだろう。LINEの履歴を見るたび、情けなくて仕方がない。
あんなふうに大切なひとを傷つけたりはもうしたくない。
様々な恋の過ちが反復する。すれ違いなんて一生起きなければいいのに。


あれは秋のはじまりだっただろうか。おそらくはじめて彼にいろいろな気持ちを打ち明けたとき、「俺、バカだからむずかしくて何言ってるかわかんない」とおちゃらけながら彼は言った。内容的には「いずれこういうの辞めようと思ってる」って感じの話しだったから、わからないふりをして回避しようとしたのだろう。

この年齢になると、ある程度時間さえ積み重ねれば相手が今までどうやって人や物事と対峙してきたか、真摯さや切実さ、誠実さが透けて見えてしまう。おそらく彼は“めんどくさいこと”から逃げたり避けてきた人だ。それを知っているからこそ、のどが詰まってしまうくらい振り絞った勇気が台無しで、 わたしは「あなたのそういういうところが、わたしのさみしさをさみしたらしめてしまうんだよ」とはじめて彼の前で泣いた。彼の前で涙を見せるなんて今まで考えもしなかったから、そこまで心ほどいてしまったことに少しショックすら感じたけど、わたしも人間だから仕方ないよな、といよいよ観念してしまった夜だった。

ただ、黙って抱きしめてくれていた彼。一緒にいるときは爆発的に楽しいけれど、さみしさをもくれる人。しかも無自覚にくれちゃうもんだから、それがどうにももどかしくて、一緒にいることに躊躇してしまう。

「好きな人にさみしい思いをさせちゃだめなんだよ。」と掠れる声で伝えると
そうだった、ごめん。と彼は眠たそうな顔でやさしいキスくれたのだった。