より道の多い人生

生き恥晒して生きていく

言葉が生まれるときはいつだってひとり

強気と弱気をいったりきたりしている。
「こんなわたしだって、幸せになっていいはずだ。」という強気と「もうこれ以上なにかを失いたくない」という弱気と。
こんな気持ちを誰かに説明できるはずもなく、いつも所在が無い。こんな感情と一生付き合っていかなくちゃならないのか。わかってる、自分の責任を自分で取るということはそういうめんどくさいことを受け入れるということだ。

彼と彼を思い続ける友人とどちらを選ぶのかと問われれば、今ある彼との時間を選ぶけれど、その分失ってしまう可能性みたいなものに対して傷付かない訳ではない。出会う順番が違えばまた違う判断を下していたかもしれない未来。過去は変えられないからこそ、執着したって意味がないと分かってはいても弁解されたわけでもない。本来なら弁解される筋合いもないし、そもそもわたしには関係のないことだ。
それでも考えてしまう。選んだ今だって疑念が晴れているわけではないから。遠くない未来でいつか失ってしまう存在なら、いっそ全部なかったことにしたい。

漫画『凪のお暇』で

男女間の悲劇の引き金はいつだって”言葉足らず”

という台詞があったけど、いつだって人間と人間のあいだで起こる悲劇は“言葉足らず”の他ならない。故意かそうでないかは別として「意思表示をしていない」ということが意思表示になる、ということをつい最近知ったところでもある。
言葉にしなければ全部なかったことになってしまいそうで、それがとても怖いから懸命に紡ぐ。けれど、それがときに邪魔になることも知ってる。どんなに唇や肌を重ねていたとしても伝わらないものと、唇や肌を重ねることでしか伝わらないものと。

会いたい人にはいつだって会えない。そうはじめから思えばがっかりすることもない。得るものがないと知ってから人生は輝く。ないものを数えるのではなく、今あるものを数えていくのはとても堅実に生きるための方法だ。だとしても、あるものすらわたしはきっと疑ってしまうからキリがない。感情が理性を凌駕する。こんなんじゃ、誰ひとり守れない。ただ唯一の自分ですら。